【海外周遊の続き】スペイン→セネガル→

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2週間の海外周遊手記の続きです。この記事では主にセネガルについて書いています。

バルセロナからダカールへ

バルセロナからダカールへ

2026年3月21日、バルセロナを拠点とするLCC、Vueling Airlinesでバルセロナからセネガルの首都ダカールへ飛んだ。

ダカールまでの所要時間は約5時間半。時差が1時間生じて、日本との時差が9時間になった。

セネガルへの入国はスムーズだった。と言いたいところではあるが、実は入国審査官が金銭(25ドル。ユーロだったかもしれない)の供与を示唆してきた。発展途上国ではよくある話だ。丁重にお断りしたら、彼はあっさりと諦めた。

何はともあれ、セネガルは私にとって103ヶ国目、西アフリカでは最初の訪問国となった。

今回の周遊はとにかく準備不足だった。

セネガルに関する日本語のガイドブックはほとんどない。インターネットでセネガルの情報を集めてざっくりした旅程を描き、4泊を割り当てた。ただ、夜間に到着して早朝に出発する4泊なので、実質的に3日間しかない。明らかに短すぎた。せめてあと1~2日は必要だったと後から悔やんだ。

限られた時間の中で私が見てきたセネガルを紹介する。

共通通貨「セーファーフラン(CFAフラン)」と新植民地主義

セネガルは1960年4月に独立するまでフランスの植民地だった。1659年にフランスの商人がサン=ルイ島に交易の拠点を設けたことで入植が始まり、1815年のウィーン会議でセネガルがフランスの植民地として国際的に認められた。つまりセネガルは約300年間フランスの影響下、支配下にあった。

セネガルに入国後、まず日本から持参したユーロを現地通貨「セーファーフラン(CFAフラン)」に両替した。

CFAフランは西アフリカおよび赤道アフリカの旧フランス領の国々で流通している共通通貨だ。西アフリカ諸国中央銀行が発行するCFAフラン、中部アフリカ諸国銀行が発行するCFAフランの2種類がある。

1958年にCFAフラン体制が始まって以降、CFAフランの為替レートはフランス・フランと固定され、1999年1月1日にフランスがユーロを導入して以降はユーロと固定されている。

ユーロとの固定レートは「655.957 CFAフラン/ユーロ」で、このレートが高すぎる(ユーロが安すぎる)と指摘されるほか、様々な問題を抱えるCFAフラン体制は旧宗主国フランスによる新植民地主義の象徴と批判もされることもある。

旅する上でCFAフランは必須ではあるが、ユーロがあれば何とかなる。私はユーロで支払い、釣銭をCFAフランでもらう、ということを何度もやった。ただし、このやり方だと不利な為替レートになるので必ずしもオススメはしない。

ダカール中心部を駆け足で回る

セネガルの玄関口となるブレーズ・ジャーニュ国際空港はダカールの市街地から約47キロ離れている。ブレーズ・ジャーニュとはアフリカ人で初めてフランスの国民議会議員になった人物らしい。

ダカールの地図を見れば分かるが、ダカールの町中(ヨフ地区)にも空港がある。2018年頃まではこのレオポール・セダール・サンゴール国際空港が玄関口として機能していた。

ブレーズ・ジャーニュ国際空港からダカール中心部にあるホテルまでタクシーで約50分かかった。ホテルにチェックインした後、直ぐに街へ出た。時間が遅かったので、夕食はケバブで簡単に済ませた。

翌朝はホテルでしっかりと朝食を済ませてから、街へ出た。なるべく歩きたいが、時間が限られているのでタクシーも利用しつつ、できる限り街を見た。

ダカールの鉄道駅を覗いてみると、白い列車がとまっていた。

後で調べたら、これはダカール中心部と郊外を結ぶ「Train Express Régional (TER)」という鉄道らしい。TERはブレーズ・ジャーニュ国際空港まで繋がる予定(計画が遅延中)とのことなので、この運用が始まれば旅行者にとってもかなり便利だろう。TERの路線図などはここで確認できる。

翌日、タクシーの中から「アフリカ・ルネサンスの像」を見た。本当は像を近くで観察したかったのだが、時間がなかった。

この像は2010年にセネガル共和国の独立50周年を祝して建造された。基部からの高さは50メートルで、米国ニューヨークにある自由の女神像よりも高さのあるモニュメントだ。タクシーの中から通りすがりに見ただけでもその巨大さは分かった。

実はこの像、北朝鮮の企業が建造した。建設を主導した当時の大統領に入場料収益の35%が支払われる契約になっていたり、半裸の人物がセネガル国民の多数を占めるイスラム教の宗教観に合わないなど様々な観点で論争があったようだ。

男性像の頭部にある展望室からは周囲を一望できるらしく、行けなかったことが本当に残念だ。

アフリカ関連のニュース専門ウェブメディア『アフリカクエスト』で「北朝鮮がアフリカで展開する銅像ビジネスとは」という記事を見つけたのでリンクをつけておく。

北朝鮮がアフリカで展開する銅像ビジネスとは。セネガルの世界一の巨大な像が驚愕レベル! - Africa Quest.com
"アフリカ"と”北朝鮮”。 この2つの言葉が結びつく人はあまり多くはないと思います。 この2つの国を結びつけるのが、実は”銅像”なんです。 アフリカ諸国を訪れると各地で目につく銅像の数々。 その銅像の多くを北朝鮮が建設しているという事実はあ...

ダカールはアフリカ大陸最西端のヴェルデ岬半島に位置している。ヴェルデはポルトガル語で緑という意味で、1445年にポルトガルの航海者ディニス・ディアスがこの岬に到達した際、緑に覆われていたことから名付けたとされる。

セネガルの推測人口は1900万人超で、その内、ダカール都市圏の人口が約380万人ということなので、首都圏に人口がかなり集中している。

これだけ多くの人口を抱えるダカールは、西アフリカ諸国の商業・経済において中心的な役割を担っている。

ゴレ島(世界遺産)

正午頃にホテルをチェックアウトして、タクシーでダカール港へ向かった。ここからゴレ島行きのフェリーが出ている。

ゴレ島はかつて奴隷貿易の拠点だった島で、1978年にセネガル最初の世界遺産として登録された。セネガル最大の見所といっていいだろう。

そのせいなのか、フェリーの切符売場は大勢の人でごった返していた。そして、フェリーの出発は定刻から15分程遅れた。フェリーの時間や料金はここで確認できる。

ダカール港からゴレ島までは約3キロ、20分程の船旅だ。同じフェリーには黒人、白人に加えて、中国人や韓国人のツアー客も乗っていた。

デッキの上で大西洋の風を浴びていると、ゴレ島がはっきりと見えてきた。

島が近づいてきた。もうすぐ到着だ。

上陸し、島内を歩き始めると、植民地時代の建物が目を引く。

奴隷の収容所として使われていた建物が「奴隷の家」という名の博物館として公開されている。言うまでもなく楽しい空間ではないが、ゴレ島を訪れたからには避けては通れない場所だ。

奴隷の家の中にある「帰らざる扉(Door of No Return)」の先は船の停泊地となっていて、収容されていた奴隷達はこの扉から船に押し込まれ、アメリカ大陸などへ送られたという。

奴隷貿易の拠点という重く悲しい過去をもつゴレ島だが、現在はゆったりと時間が流れる平和な島だ。気持ちを切り替えて、島内の散策を再開した。

東西300メートル、南北900メートルのこの小さな島には車も走っていない。フェリーは混んでいたが、島中に観光客が溢れているような状況ではなかったので、穏やかな気持ちで歩くことができた。

島の南側は高台になっていて、ゴレ島とダカールの町が一望できる。

島内に点在するアトリエで制作された絵画やアクセサリーなどが路上に並ぶ。静かなゴレ島は芸術家が作品作りをするのにうってつけなのかもしれない。

港へ戻ると、フェリーを待つ人々の行列ができていた。

ゴレ島には3時間程滞在し、飾り気のない島をゆっくりと散策することができた。島内には宿もあるので、時間に余裕があるなら泊まるのもいいだろう。

ニョール(ンゴール)島

ゴレ島からダカールの町に戻り、宿で預けていたバックパックを受け取り、宿のスタッフがアプリで手配してくれたタクシーで中心部から離れたニョール(ンゴール)地区へ向かった。

ニョールに着いた頃にはすっかり日が暮れていたが、目星を付けていた宿に飛び込みで泊まることができた。宿の周辺はローカル感満載で、路上でアナログなサッカーゲームをする青年など、地元民の日常を垣間見ることができて楽しかった。

宿のテラスからはニョール島が見えた。水泳が得意な人なら泳いで渡れそうな距離感だが、宿の前にあるビーチからモーターボートに乗れば数分でニョール島に行けるようだ。

せっかくなので、翌朝、ニョール島にも行ってみた。滞在時間はわずか30分程だったが、のんびりした雰囲気を感じることができた。ゴレ島よりもっと小さな島だが、宿やレストランもある。アトリエも見かけた。

<ニョール島から対岸の眺め>

ダカールからサン=ルイへ

ニョールからタクシーでダカール郊外にあるバスターミナル(BEAUX MARAICHERS GARE)へ移動した。ここから乗合タクシーでセネガル北部のサン=ルイへ向かう。

乗合タクシーは定員になり次第出発する。そのため、タイミングによってはかなり待つことになる。私が切符を買った時点で席の半分くらいが埋まっていたが、出発まで1時間ほど待たねばならなかった。

13時30分頃、ようやくMITSUBISHIと書かれた白い車が出発した。

乗合タクシーは原則満席での運用なので、車内は窮屈だ。

この時期、セネガルはさほど暑くはないものの、乗合タクシーの移動は決して快適とはいえない。定刻通りに運行するかは分からないが、バスもあるようなので、ダカール⇔サン=ルイを移動する場合はバスの利用も検討するといいだろう。

<乗合タクシーの車内>

サン=ルイ島(世界遺産)

ダカールを出発してから約5時間後、サン=ルイに到着した。

サン=ルイ島は全長507メートルのフェデルブ橋で本土と繋がっている。タクシーでサン=ルイ島へ移動した後、宿探しを兼ねて街を歩いた。海岸までは行けなかったが、夕陽を拝むことができた。

サン=ルイ島はかつてフランス領西アフリカの首都として機能していた。島内に現存するフランス植民地時代の建造物群が「西アフリカにおける植民地支配の様子を現代に伝える貴重な例証」という価値を認められ、2000年に世界遺産に登録された。

<サン=ルイ島の地図>

建造物群とは例えばこんな感じだ。

この日はいくつかの宿を見て回った後に、「オテル・ドゥ・ラ・ポスト(Hôtel de la Poste)」に泊まった。『星の王子さま(Le Petit Prince)』の著者として知られるサン=テグジュペリが郵便飛行機の飛行士だった頃に好んで泊まっていたそうで、ホテル内にはそれっぽい展示がしてある。

<オテル・ドゥ・ラ・ポスト(右の白い建物)>

この日の夕食には「ヤッサ・ポワソン」というセネガル料理を食べた。レモンと玉ねぎで作るヤッサソースを揚げた魚(フランス語でポワソン)にかけたセネガルの伝統料理だ。

<ヤッサ・ポワソン>

翌朝、現地で買った果物で簡単に朝食を済ませてから、街へ繰り出した。宿を出てセネガル川沿いを北へ歩くと、立派なモスクがあった。

セネガルでは日常の移動手段や運搬手段として、馬が活躍している。

歩いていると、男性がセネガル川で馬を洗っているのを見かけた。川にはピローグという伝統的な木製の小型漁船が並んでいて、絵画的な光景だった。

更に歩いて海岸まで行った。海岸線には何隻ものピローグ(小型漁船)が並んでいる。

海岸から集落の中に入ってみると、路上で遊ぶ子ども、手で洗濯している女性、何やら作業をする人など地元民の日常を垣間見ることができた。

実は、滞在時間が3日間の旅程で、乗合タクシーで片道5時間かけてサン=ルイ島へ行くことに少し迷いが生じたことがあった。

しかし、この辺りでローカル感あふれる印象的な光景に出合い、来てよかった!と心から思えた。

時間がない中、もう少しだけ、もう少しだけと自分に言い聞かせながら歩いた。

もっと、もっと歩きたいと後ろ髪を引かれる思いでホテルへ戻り、近くのレストランでマフェを食べた。 ピーナッツとトマトをベースにした煮込み料理だ。

<マフェ>

フランスが植民地時代にピーナッツの栽培を奨励したこともあり、セネガルではピーナッツが重要な産業となっている。セネガルのあらゆるところにフランスの影響が残っていることが分かる。

腹ごしらえの後、タクシーでサン=ルイの町外れにあるバスターミナルへ行き、ダカール行きの乗合タクシーの切符を買った。連番の下に手書きで運賃(5000 CFAフラン)が書かれただけの簡素な切符が微笑ましい。

ちなみに、セネガルの北側はモーリタニアと国境を接していて、サン=ルイ島の中心部から北へ数キロも行けば、モーリタニアとの国境がある。地図で見ると、主にセネガル川が国境になっているようだ。

国境を越えてモーリタニアの首都ヌアクショットまで行きたい…。サン=ルイ島はそんな欲望にかられる絶妙な場所に位置している。国境越えどころか、サン=ルイ島にたったの1泊しかできない旅程が残念でならない。

心残りはあるが、足るを知ろう。こんなご時世に、日本から遠く離れたセネガルを旅できたことに感謝だ。

セネガル最後の夜

幸い、サン=ルイでは出発まで30分程の待ち時間で済んだが、ダカールまで往路より30分程長く、約5時間半かかった。

ニョール地区のホテルにチェックインしたときには20時を過ぎていた。散歩と軽い夕食、シャワー、出発準備を済ませた後、ホテルの屋上へ出た。

2日前に泊まった宿があるニョール・ビーチの辺りから潮騒が聞こえる。空には三日月と星が浮かぶ。

この旅も終わりが見えてきた。大西洋から届く柔らかな海風が、私の旅情にそっと触れた。

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